聖地にあるものは、聖地のもの。
そこの土や石を持って帰ることは、本当はいけない行為。
樹木も、石も、土も、
神様が宿る神聖なものとされているから、
勝手に持ち帰るということは、
「神域を荒らす行為」や「盗み」と同じことと言われています。
あとは、、、
これは本当かどうかはわからないけれど、
聖地の石を持ち帰ると災いが起きる、という言い伝えもあるようですね。
その場所には、その場所に訪れた方々の想いが宿っているので、
石はそれらを吸収している可能性もあります。
良い念だけとは限らないですしね。
偉そうにこんなこと語っているわたしですが、
今だから打ち明けますと、、、じつは、
わたしは、富士山の石を持って帰ってきたことがあるんです。
ザレザレの登山道から、
気に入った形の石をひとつ見つけてしまってね。
そして、本当はわたしは、石が欲しかったわけではないんです。
富士山で味わったすべての経験、すべての感動、
富士山が伝えてくれたこと、それら全部を、持ち帰りたかった。
実際に、富士山から降りたあとは、
お土産を選ぶためにお店にも寄るのですが、
登山中の感動を表現できるお土産なんて、ほんとなくて。
界隈で富士山を味わっているだけの時だったら、
(登山しない時だったら)喜んで買うようなお土産でも、
登山と下山のあとの感動に包まれている状態では、
どれを手にとっても選べないんです、
当てはまらないんです、
これは本当なんです。
だけど、その石は違った。
小さな石でしたが、わたしが感動したすべてを吸収していました。
登山中の石が、自然と靴に入ってしまったことは
これまでもありましたから、、、
そうだ、靴の中に入っていたことにしよう。
自分でそう決めて(どう考えても、その石、靴の中に入るわけない大きさ。)
石を持って帰ってきたのでした。
さて、その後のわたしに起きたこと。
そう、石が欲しかったわけじゃなくて、
感動を持って帰ってきたかっただけなのに、
なのに、帰宅後のわたしが持って帰ってきてしまったのは、
罪悪感だったのです。。。
そして、その気持ちを、振り切るかのように、
富士山の石を玄関に飾ったりもしていました。
いま振り返ると、ナンテコト😱
その後も、日常は普通に過ごしていましたが、
玄関を出入りするたびに、その石が視界に入り、、、
わたしは、玄関を出入りするたびに、
ごめんなさいを言うようになりました。
そして、再び富士山へ。
石を拾った場所に行き、石を返しに行きました。
きっと、これも、富士山が教えてくれたことだと思ってます。
持って帰ってきた石を見るたびに、
あなたは何を感じますか?と問いかけ続けてくれてたのかもしれないです。
罪悪感など感じない人もいるでしょう。
でもわたしには、
「勝手に持って帰ってきてしまった」気持ちが強く残ってしまった。
だから、ちゃんとお返しすることが出来て本当に良かった。
返すだけでは足りないくらい。
富士山が教えてくれたことは、
どうぞゆっくり富士登山を楽しんでいってねということ、
景色も、感動も、記憶の中にいくら持ち帰ってもいいよということ、
でも、、石は置いていきなさいということでした。
持ち帰るべきものは、物ではなく体験のほうを。
そして、その体験も。
受け取ったものを独り占めしないことを
富士山は教えてくれたのかもしれないです。
富士山で受け取ったものは、
施術の時に渡す、
易学講座の時に渡す、
日常会話で渡す、
ちゃんと、わたしの言葉に置き換えて渡す。
そうやって巡らせていくものだと教わったと思っています。
わたしは、毎年、富士山に行きますが、
毎年、違う登山になります。
何度行っても、同じ富士登山は一度もないんです。
だから、、、きっと、富士山から受け取ったものというよりは、
預かり物かもしれないです。
「これ、今年のゆみこに。」ってね。
所有しちゃいけなくて、預かりもの。
だから、自然と誰かに渡したくなる。
身体と言葉を使って、手渡していく。
そんなこと想っていたら、また気づきました。
この世からあの世に行くときも、きっとこんな感じかもしれないですね。
物は置いていけ。
体験は持っていけ。
って。
富士山の石は、手に握っていると、
身体が温まってくるんですよ。
特に宝永火口の石は、
地球のド真ん中から噴き出してきた石なわけで、
不思議な気持ちになります。
本当なら、触れられないものじゃないですか。
地球のド真ん中は、大げさな表現かもしれませんが。
^_^
聖地にある石は持って帰ってはいけないお話。
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